紀国の考える「公共性」とは、次のようになります。
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目次
紀国による「公共性」および「公共財」の定義
公共性三元論
公共性性研究の方法
紀国による公共性研究の方法
八つの人間生活の基盤的共同利用関係
利用対象物[U]pを専業的に管理する専門集団の発生
紀国による「公共性」および「公共財」の定義
紀国は「公共性」および「公共財」について、次のように、日常生活と日常感覚にそって簡潔に理解いたします。それが学界などの公共性概念の「狭さ」と「硬直性」を克服できるからです。またこの方法によって、金融・国際金融も公共財・国際公共財にふくめることができるからです。「公共性」とは、みんなで利用するものを、みんなの利益のために、みんなで制御する集合的行為関係・行為様式を表した概念です。
共同で利用する利用対象物(あるいはその利用システム全体)が「公共財」という名称をもつのは、それらの利用者たちがそのように尊重する名称(わたしは「規範的名称」と表現しましたが)を付けるから、そのように呼ばれるようになったのです。その利用対象物(あるいはその利用システム全体)そのものが、もともと公共財としての性質を持っているからではありません。
例えば、次の図表:共同利用様式(単純対等ケース)を参照してもらいながら、説明してみましょう。
この図表は、利用者Aと利用者Bがなんらかの利用対象物を利用していることを単純に表したものです。
ちなみにわたしは利用(use)とは、人間が外部環境に働きかけること(投出行為:output action)と、外部環境からの働きかけを受けること(投入行為:input action)の相互作用として理解します。
酸素を吸えば(投入)、二酸化炭素を吐き出します(投出)。水を飲めば(投入)、排尿します(投出)。食糧や水を摂取すれば(投入)、排泄物を出します(投出)。農耕労働をすれば(投出)、農産物を得ることができます(投入)。道路を造る労働をすれば(投出)、運輸や移動および情報伝達のサービスを得ることができます(投入)。言語や文字などで情報を発信すれば(投出)、情報を受けとることができ(投入)、コミュニケーションが成立します。
人間が生命を維持し生活していくためには、投出行為と投入行為の両方が必要で、いずれか片方だけでは生きていけません。また、その両者のバランスを維持することが、その利用の持続性を可能にするのです。この投出行為と投入行為の制御作用を、わたしは「永続調整」と定義しました。
利用対象物[U]には、共同利用が可能な何を当てはめてもいいのですが、例えば、人間の生命維持と農業などに欠かせない水としましょう。水源には、井戸、湧き水、ため池、川などがありますが、ここでは井戸を、利用対象物[U]としましょう。
Aが自分だけが利用できる井戸を掘り出せば、それは[U]aとなりAの私的財となります。同様にBも自分専用の井戸を造り出せば、それはBの私的財[U]bとなります。A、Bそれぞれが、それぞれの方法で井戸を得るための労働を行い(投出)、その水をそれぞれの自由な方法で飲料や農業などに使えます(投入)。それぞれが、自分の井戸を、自分の好きなように利用できて私的利益を得ます。
しかしAもBもいっしょに一つの井戸を利用しているとすれば、その[U]は、二人の共同利用財であり、二人の公共財[U]pとなるでしょう。[U]を[U]pにするのは、[U]の素材的性質ではなく、[U]に対するAとBの利用関係・利用様式がそうさせたのです。
こうなるとAの投出・投入行為は、Bの投出・投入行為にも影響を与えます。Aがたくさんの水を使いすぎると、Bは水不足で困るかもしれません。それは二人が利用することで、二人の投出行為と投入行為が結びついたからです。わたしが公共財を、「投出行為と投入行為が結合される集合的行為関係・行為様式」と定義したのも、それゆえです。
日本の歴史をふりかえると、農村では村ごとの水紛争が絶えず、暴力沙汰や殺し合いまで起こったといいます。戦国時代に甲斐の武田信玄が、三つの村が水をめぐって争っているのを、湧き水が三方向の村に平等に流れる石造り装置を水源に取り付け、紛争を見事に治めたという実話があります。この石造り装置はまだ現存しています。この共同制御によって、利用者たちは安心して利益(共同利益)を得ることができたのです。
室町時代末期から江戸時代にかけて、村や荘園などの住民は、山林・原野・湖沼・河川・漁場などに自由に出入りして、木材、薪炭、牧草、魚、水など生活に必要なものを自由に入手できる権利「入会権(いりあいけん)」を認められていました。自然資源を公共財として共同利用し、共同利益を得るのが当然のことだったのです。一村の住民全員が利用する「村中入会」、数カ所の村が共同利用する「村々入会」など、多様な共同利用様式が住民の生活を支えていました。
共有地(コモンズ:commons)は法則的に荒廃するという、有名なハーディンの「共有地の悲劇」などのことは、起こらなかったのです。
ところが明治維新の地租改正で私有地が認められ、私有地入会では私有権と入会権の対立と紛争が多発して、有名な岩手県での小繋事件(こつなぎ事件)に発展しました。
農漁村ではほかにも、「催合(もやい)」と「結(ゆい)」という、共同性が最も強い慣行がありました。「催合(もやい)」とは、生産手段や労働を共同で提供し、その成果を平等配分する共同利用様式です。共同の船で共同出漁する「もやい船」、共同の地引網を使う「もやい網」、共同して狩りに出る「もやい狩り」、共同で耕作する「もやい田」、共有林の「もやい山」、何軒かの家で風呂桶を共同利用する「もやい風呂」、道路や橋などを共同で造成・補修する「もやい仕事」などがありました。
「結(ゆい)」は、田植えや屋根のふき替えなどの時に、おたがいに労働を提供しあって協力する共同利用様式です。
イギリスにおいては、私有地だとしても、誰でも自由に通行できる公共の小道「Public Foot Path」が、私有地の中を堂々と横切って出来ています。ボランティア団体が管理しているそうです。
また森の国スウェーデンでは、私有地でも国有地でも、自然さえ壊さなければ、誰でも森に入って、キノコや木の実、魚などの自然の恵みを採って構わない権利「自然享受権」が認められています。採りすぎると、森に住む妖精エルヴォルが怒って病気になるという伝説が語り継がれ、持続性を確保しています。
イギリスとスウェーデンの二つのケースは、誰もが利用できる公共財であるかどうかは、所有様式ではなく、その利用様式で決まることを教えてくれる好事例です。
[U]に絵画という精神的・文化的生産物を当てはめてみましょう。AとBがそれぞれ好きな絵画を購入して自分の部屋に飾って楽しんだり、投機の対象として値上がりを期待して金庫に保管したりすれば、それらはそれぞれ、[U]aと[U]bという、それぞれの私的財となります。
ところが二人がそれらを美術館に寄贈して、誰もが鑑賞できるようにすれば、それらは[U]pという公共財になるのです。そして美術館を訪れる多くの人々に感動と満足を与えてくれるのです。
絵画という芸術品そのものに私的財とか公共財という性質はまったくありませんが、それらの利用様式の違いで、いずれにもなるのです。
芸術品が、私的財になるか、公共財となるかについては、対照的なおもしろいエピソードがあります。
日本のお金持ちの社長が世界遺産級の高級絵画を購入して自分の部屋に飾り、とても気にいって楽しんでいたのですが、あろうことか自分が死ぬときに棺桶に入れてくれと遺言したというのです。それは実現しなかったとのことですが、実に不愉快になる話ですね。
これとは対照的に、現代アートのコレクターであったハーブとドロシーというニューヨークに住む老夫婦の話があります。
ハーブは郵便局員、ドロシーは図書館司書で、1LDKのアパートでつつましい生活を送っていましたが、自分の気にいったもの、自分の収入で買えるもの、アパートに収納できるもの、という三つの原則で、若いときから二人で楽しみながら、コツコツと現代アートの作品を購入し、若い芸術家を支援してきたのです。それが4000点にもなりアパートに収納できなくなったので、二人は2000点以上を国立美術館に惜しげもなく寄贈したのです。それらの作品には現代アート史に残る名作も多く、その数点を売るだけで二人は富豪になれたそうですが、そうはしなかったのです。
二人は今も昔からの古アパートに住み、年金生活でコレクションを続けているそうです。芸術を真から愛しているのですね。
この出来事に衝撃を受けた日本の佐々木芽生監督が、2008年にドキュメンタリー映画「ハーブ&ドロシー:アートの森の小さな巨人」を作成したのですが、これが世界中に感動を与え多くの映画賞を得ました。わたしも観ましたが、実に幸せな気持ちにさせてくれる映画でした。
公共性三元論
これまでは利用者AとBという二人を登場させて、公共性について説明してきました。しかし実際には、AとBの二人だけということはあり得ません。これはわかりやすくするために、簡単に設定してみただけのことです。AもBも、それぞれ複数の人を代表しております。共同利用対象物の違いに応じて、数人から数十億人もの複数の人々が関係するさまざまな場合があるのです。わたしは、複数の人が投出行為と投入行為の結合という共同利用関係を結ぶ集合的行為様式を公共性といい、その利用対象物になったものを公共財と定義しますが、学界などの使い方にならって、わかりやすくするためにその利用システム全体を、公共財ということもあります。
共同利用関係を結んだ複数の人々は、その複数の人々で投出と投入行為を結びつけ、その複数の人々の利益になるように、複数人の考えや工夫で、投出と投入行為を制御しなければなりません。
共同利用様式とは、このような三つの行為側面から構成されています。この三つの行為側面を、共同利用(common use)、共同利益(common interests)、共同制御(common control)と定義することにします。
共同利用とは、利用対象物[U]p に対して、自分だけでなく他人もふくめて投出と投入行為ができて、それらが結びつくことです。
共同利益とは、このような投出と投入行為の結合によって、自分だけでなく他人もふくめて、みんなの利益を持続的に生み出し、みんなに還元することです。
共同制御とは、このような持続的利益を生み出すために、利用対象物[U]p について、自分だけでなく他人もふくめて、みんなで投出と投入行為を制御(コントロール)することです。
この三つの行為は、実際の過程では一体化されている場合もあるので、三つの行為側面と表現することにします。そしてそれらは相互に関係しあっているのです。適切な共同制御によって、投出と投入行為がコントロールされれば、利益が生み出され、その共同利用様式は持続しますが、そうでなければ不利益を与えるかもしれません。そうなればこの共同利用様式は崩壊します。この三つの関係を図表に表したのが、以下の図表「公共性三元論」です。
この三つの行為側面の相互関係を、多くのさまざまな実際の公共財について、歴史的に研究することは、とても重要な研究課題だと思います。わたしも時間と命がある限り取り組むつもりですが、どなたか関心のある方々に研究して頂きたいと念願しております。とても面白い人類史を垣間見ることができるかもしれません。
公共性性研究の方法
以上、公共性と公共財について、わたしの考えを簡潔に述べてきました。この公共性研究の方法論は、わたしたちの日常生活と日常感覚に対応したものなので、常識的に理解できることと思います。しかし学界での公共性論や公共財論は、分野に特化してとても難解でわかりにくく、わたしには人間生活の現実からかけ離れているようにも思えます。例えば、経済学分野の新古典派や公共経済学派の公共財論は、「非排除性(ある人の利用を排除できないこと)」「非競合性(ある人の利用が他の人の利用を妨げないこと)」という性質を備えた財やサービスを公共財と定義します。しかしもともとこのような性質をもった利用対象物など、この世に存在しません。このため準公共財などという概念をつくって定義が変質したり、平和・信頼・安定などのもともと集合性をあらわす抽象的概念に公共財を求めたり、公共財の発見は難しいと言って自己矛盾に陥ったりして、ますます自ら混迷を深めています。またこれらの公共性論では、金融・国際金融は公共財の定義からはずれてしまうか、金融における信用や信頼が公共財だというように、集合性をあらわす部分的抽象概念に公共財を求める方向にゆがんだりしてしまうのです。
哲学、法学、政治学、行政学、社会学の分野では、二つの公共性が現れます。「偽の公共性」と「真の公共性」です。理想的な集合的行為関係を想定し、劣悪なものとの区別をはっきりしようとしたからです。公共性が権力性をもったり、腐敗・変質したりすることには、わたしも大いに同意いたします(むずかしく表現すれば「公共性疎外現象」ともいいます)。しかし、公共性は黒か白かで簡単に割り切れるものではなく、現実には黒と白の間に、さまざまな濃淡に彩られた広い範囲の灰色部分(グレーゾーン)が存在します。
これらの公共性論でも、金融・国際金融の公共性は、論外になります。
これらの学界の公共性論の「狭さ」と「硬直性」から脱却し、人間生活の現実に立ち、もっと生き生きした公共性論を展開するには、どういうことを心掛ければいいのか、わたしは以下の8点の原則をまとめてみました。わたしへの戒めの意味をもつ研究指針とするためです。
拙著『金融の公共性と金融ユニバーサルデザイン』では、最初にこれを提示したので、読者に難解なイメージを与えてしまったと、大いに反省しています。しかしその後の説明を読んでもらえば、むずかしいことではないと納得していただけるものと思います。以下、矢印で示した説明が公共性研究の紀国方法論です。
紀国による公共性研究の方法
(1)財・サービスの素材的性質・属性としての公共性。→人間の集合的行為関係・行為様式としての公共性。
(2)理論・理想としての公共性。
→現実的・実際的な人間の行為に関係するものとしての公共性。
(3)一面的・一義的な内容をもった公共性。
→多様で多面的な人間の集合的行為関係・行為様式を表したものとしての公 共性。
(4)公共性疎外なしの公共性。
→公共性疎外ありの公共性。
(5)静態的・固定的・普遍的に存在するものとしての公共性。
→動態的・創造的・永続調整を必要とするものとしての公共性。
(6)政治・行政分野や財政分野に限定されるものとしての公共性
→金融分野をふくめより広く統一的・簡潔に説明できる公共性。
(7)国内分野に限定されるものとしての公共性。
→国際分野をふくめより広く統一的・簡潔に説明できる公共性。
(8)閉ざされた硬直的な公共性研究の方法。
→応用・展開が自由で可能な公共性研究の方法。
八つの人間生活の基盤的共同利用関係
紀国は、人間生活の共同利用関係について、その基盤になるものを次のように八つ考えました。もっといろいろあるでしょうが、主要なものに限定しました。わたしの公共性論では当然に金融も含まれます。なお拙著『金融の公共性と金融ユニバーサルデザイン』では、「合同的共同利用」の説明を一つの例示で説明してきましたが、執筆時も出版後も何か重要なものが足りないと感じていました。ようやくその重要なものがわかったので、「企業的合同利用」という、もう一つの例示を加えました。このページでは、合同的共同利用のケースを、「自然加工物共同利用」と「企業的共同利用」の二つに分けて、補足改訂しました。(1)自然界共同利用
自然界共同利用とは、太陽光、大気・気流、雨・雪などの降水、気候、温度、海洋・海流、海岸・浜・干潟、深海底、河川、湖沼・湿地帯、地下水脈、平野・原野、土地・土壌、山野、森林・原生林・熱帯林、山岳、地下空間、地下資源・化石資源・鉱物資源、多種多様な微生物類と動植物群、南極圏・北極圏、成層圏に至る空中空間、オゾン層、宇宙空間などの、自然界が人間にもたらすさまざまな恵みを、異質的あるいは同質的にそして直接的あるいは間接的に、共同利用していることです。
自然界共同利用を支える[U]p は、太陽光の下で大気と水が対流と循環を繰り返す地球の自然系と、微生物類や動植物群などの多種多様な生物体が形成する有機的生態系で構成された空間的・時間的な地球循環システムです。
これらの多くが国境をこえて存在していたり、その恵みや作用が国境をこえて及んでいるので、これらは国際公共財(地球公共財)であり、人間の生存を根本から支える根源的公共財です。
共同制御の主体は、その広がりと係わりに応じて、地球規模単位、国民国家単位から地域単位までさまざまな組織があります。地球的規模なら国際機関あるいは国民国家の協議体がその役割を担い、現代では国連の「世界気象機関」、「国連環境計画」、国連の科学研究機関である「国連気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」、温室効果ガスの削減目標を決める「気候変動枠組条約締約国会議(COP)」、国際湖沼機関などがあります。国境を越えて流れる河川には、「国際河川委員会」があります。国民国家から地方政府・自治体などの公的機関は重要な役割を果たします。村落などの小さな単位では、前述した「入会権」をもつ住民がかかわります。もっとも小さな制御単位は、家庭と個人となります。
(2)合同的共同利用
合同的共同利用とは、Aの投出とBの投出が合同され、同様にAの投入とBの投入も合同される方法です。AとBがいっしょに作業をする協業や仕事を手分けする分業などの方法で協力して、労働やエネルギーを投出することによって(合同投出)、AもBも、単独で行うより、より多くの有用物やサービスを効率的に獲得できます(合同投入)。
この典型例として、「自然加工物共同利用」と「企業的共同利用」の二つのケースをみてみましょう。
(自然加工物共同利用)
自然を加工するためにはより多くの労働の投出が必要なので、 [U]pには、主に自然加工物が多くなります(社会資本ともよばれます)。道路・港湾・橋・運河・鉄道などの輸送手段、ダム・用水路・上下水道網・ガス・電機・送電網などのいわゆるライフライン、さらに堤防・防潮堤などの安全施設などがそうです。
前述したように、村落単位では、「催合(もやい)」、「結(ゆい)」などがありました。
(企業的共同利用)
より多くの有用物やサービスを産出するために、異なった種類の合同投出と合同投入が、[U]pという企業組織に多面的に組み合わさる共同利用様式が、企業的共同利用です。
株式会社組織では、多数の株主が資本を投資し(合同投出)、配当を受け取ります(合同投入)。多数の労働者・従業員は協業や分業などで協力して労働を行い(合同投出)、賃金を受け取ります(合同投入)。企業の多岐多数にわたる取引先は、さまざまな原材料などを供給したり運輸・通信サービスを提供して(合同投出)、貨幣(代金)を受け取ります(合同投入)。多くの消費者はその企業の商品・サービスを購入するために、貨幣を企業に支払い(合同投出)、商品・サービスを受け取ります(合同投入)。企業が立地された周辺の地域住民は、土地・空間などの環境や道路・上下水道などのインフラを提供し(合同投出)、地域産物の販売収益、雇用、税収などを受け取ります(合同投入)。企業は生産を行うために、自然界から大気や水、原料などのさまざまな自然資源を取り入れ(合同投入)、さまざまな経路で排出します(合同投出)。企業規模が広がれば広がるほど、企業に関係する地域住民の範囲は広がり、地球規模になることもあります。
(3)伝達的共同利用
伝達的共同利用とは、Aの投出した情報がBに投入されて伝えられたり、Bの投出情報がAに投入されて伝えられたりすることです。AとBのそれぞれの投出・投入行為が結合されるので、双方の意思、意図、考えが支障なく、効率的に伝達される必要があります。またこれによってそれぞれがもっている有用な知識、情報、文化がそれぞれに伝えられます。AとBそれぞれ単独では入手できなかった有用物に関する情報や有益情報、文化などを獲得できます。
このような共同利用関係を支える利用対象物[U]p として、まず重要なものに、共通の言語と文字があげられます。言語と文字は、人類が開発したもっとも基盤的な公共財です。そしてこれらを教える公教育や学校も基盤的な公共財になることはいうまでもありません。さらに言語と文字を記録・保存する媒体、およびそれらを伝える信号やケーブル、通信設備、電波などのさまざまな通信手段も公共財となります。
これらによって有用・有益な知識や情報、生活方法、生活習慣、文化、音楽、絵画、娯楽、生活規範・モラルなどが広められ、蓄積され、伝承されていきます。これらの情報伝達手段は、以下に述べるすべての共同利用に欠かせないものであるとともに、投出と投入行為をコントロールするための共同制御手段として、民主主義と情報公開の基盤ともなります。
(4)単位的共同利用
単位的共同利用とは、投出行為や投入行為の時間の長さの単位や、投出あるいは投入するモノやサービスの長さ、重さ、大きさなどの単位とその表示や計算に用いる数字を共通の標準化したものにすることです。AやBがそれぞれ自分独自の時間単位、度量衡基準や数字を用いていたのでは、換算したり読み替えするなどの作業や費用が余分に必要になり、それによって共同利用行為や取引が煩雑で不効率で不便になります。
このような共同利用関係を支える利用対象物[U]p として、共通の数字、共通の時間単位や標準時間、共通の暦、長さ・重さ・大きさなどの共通の度量衡が開発されて、適用されるようになり、社会の誰もが利用する公共財となりました。
(5)相互扶助的共同利用
相互扶助的共同利用とは、事故や災害、病気などに備えて食料や生活物資などを蓄えたり、いざというときに支援や治療を受けたりできるような保険機能や安全網(セーフティネット)を、単独ではなく共同で準備することです。共同備蓄機能によって単独で実施するよりも、より少ない準備金でより多くの保障機能を得ることができます。
(6)交換的共同利用
交換的共同利用とは、Aの投出した有用物あるいは有用サービスがBの投出した有用物あるいは有用サービスと交換され、それぞれのところで投入されて消費される方法です。これによってAとBそれぞれ自分の領域にはなかった有用物を獲得できたり、有用サービスを受けることができます。
中世の英国では、町の中心地には屋根付きのマーケット・ホール(市場)があり、パブリックの語源ともなったといわれています。これらの広場を中心として市民が集まってきて、さまざまな交流が行われ、市庁舎や娯楽施設なども出来、町の中心になって発展してきたのです。
(7)貨幣的共同利用
上で述べた交換的共同利用においては、いつもおたがいに交換したい有用物が一致するとは限りません。そこでいったん誰もが必要とする可能性の高い有用物と交換しておき、次にそれを使って自分の欲しい物と交換するという取引方法が日常になりました。この過程で誰もが必要とする可能性が高い有用物(汎用性の高い生活必需品)が、共通の交換手段として使われるようになったのです。これが貨幣の誕生です。貨幣は物品貨幣として人類史において長くその役割を果たしました。石器、布、革、小刀、宝貝、米、麦、塩、油など、できる限り保存性や分割性、運搬性、携帯性が良好な有用物が貨幣としての役割を果たしたのです。
交換的共同利用の地域的発展とともに、保存性・分割性・携帯性に優れた素材的性質をもった金属類がそれらにとって代わり、より優れたその特性をもった貴金属の銀や金が現れ、金が貨幣としての地位を独占したのです。さらに金を節約・管理するために金と交換できる銀行券(兌換銀行券)が発行されましたが、戦争と恐慌のため金との交換は停止され、現代では中央銀行が発行・管理する紙を材料とした不換銀行券が貨幣の主流になっています。
(8)貨幣の貸借的共同利用
貨幣の貸借的共同利用とは、Aの投出した貨幣(貯蓄資金)をBが借り受けて投入し後に利子をつけて返済したり、その反対にBの投出した貨幣(貯蓄資金)をAが借り受けて投入し後に利子を添えて返済する方法です。AとBの間には、債権者と債務者という信用関係が形成されます。
日本には、昔から、「無尽」「頼母子講」などの小口の資金を出し合って困ったときに助け合う金融制度がありました。これは全員参加であって村落共同体の絆を維持するためのものであり、現代に至ってもこの風習が受け継がれている村があります。これらの制度が信用組合や信用金庫などの協同組合金融へと受け継がれて、銀行制度の発展の礎になったのです。
八つの共同利用関係を説明してきましたが、これらはお互いに他の共同利用関係の働きを補完しあって複合的に機能します。たとえば、農業による土地の利用が田園という風景・景観を提供したり、大雨時の遊水池としての安全機能を果たします。交換的共同利用にとっては、相互の意思を伝え合う伝達的共同利用、共通の計量単位を用いる単位的共同利用、共通の等価物である貨幣の利用、人間の移動や物流などの運輸サービスを担う道路などが不可欠になりますが、その道路は飛脚や郵便などのような伝達通信機能も果たします。
以上、人間生活の基盤的な共同利用関係を八つ挙げてみましたが、実際に存在・生成する人間の共同利用関係は、これらに限定されるものではありません。地域的広がりから規模の違い、さらに利用対象物も異なった多種多様で多くの共同利用関係が存在するし、それらは重複しながら相互に網の目で結ばれています。科学技術の発展や政治・経済・軍事における時代の変化とともに、新しい共同利用関係が生成したり、広がったり、劣化したり消滅したりもします。
利用対象物[U]pを専業的に管理する専門集団の発生
共同利用関係が地域的にも人数的にも規模と範囲を拡大していくにつれて、共同の利用対象物[U]p の調整・仲介・管理・供給などの業務を専業とするCという人物や組織が登場するようになります。投出と投入が集中するにつれて、それらを効率よく結合させていくためには、専門的知識や技能・技術、経験、装備を蓄積することが必要になりますし、現実に、それらの仕事を得意として専業とする人や組織がAとBのなかから分化して現れてくるのです。これによってよりいっそう高度な共同利用関係が形成されます。これを図表で表したものが、下にあります図表「共同利用様式(社会的専門分業ケース)」です。このような社会的専門分業には、垂直的社会分業と、水平的社会分業という二つの種類があります。
(垂直的社会分業)
垂直的社会分業とは、AとBがもっていた専門性と自主的権限をCが吸い上げて、優越的で強制的な権限をもつ上下関係を形成することです。力のあるCが強制的にこのような権限を奪い取る場合もあれば、AとBによる自主的・民主的な権限付託と信託によってこのような関係が形成される場合もあります。いずれにせよCは、専門的能力をもった政治集団や行政集団(官僚と公務員集団)を組織して、政府を形成します。AとBによる共同利用関係は、専門能力と強制権限をもったCが調整、仲介、管理、供給を担う共同利用関係に編成替えされることになるのです。
AとBは市民・納税者として租税などを納める強制的な義務を負い(投出)、その見返りにさまざまな公的サービスを受給するだけの立場にたちます(投入)。
Cがその専門能力を生かして、AとBの投出と投入をうまく結合させ、より少ない投出でより多くの投入成果につながるようにできればいいのですが、問題は、その専門性が特権化と密室性・複雑性を生みだし、投出と投入がどのように結びつけられたのか、外部からは知りえなく、みえなく、わからなくなることです。そうなるとそれらがCによって私物化されたり、浪費されたり、不正や腐敗を生み出したりすることが多くなり、前述した「公共性疎外現象」が強まります。しかも強制的権力をもっているので、[U]p を特定階層や特定階級、特定政党が独占するようになったり、軍事的に掌握することにでもなれば、ますます公共性疎外は強まり、公共性三元論評価からみてもっとも劣悪な共同利益水準、共同制御水準になってしまいます。
公共財としての持続的利益を高めるためには、共同利用関係者すべてが相互作用と相互依存の関係にあることを容易に認識できることによって、それぞれが社会的責任を果たすことの自覚と共感を高めることが必要です。市民・納税者が受け身的立場に留まるのではなく、より積極的に社会的責任を果たすために、政府や行政、政治家の社会的責任の実施状況についての重要情報の開示を求め、政府・行政・政治家もそれを誰もが簡単・明瞭に理解できるように開示し、それに基づき社会的責任評価が実施され、それが投票行動や政治家の評価と選択に反映できることが必要なのです。さらに行政や政治への直接参与も不可欠です。このことによって公務としての職業倫理と規律が高まりますし、それを高めるための社会的責任教育が職務現場と教育現場に導入される必要があります。
(水平的社会分業)
水平的社会分業とは、AとBがもっていた専門性をCが吸い上げ、専門的な事業を行う経営組織(企業や金融機関)を立ち上げることです。Cはその専門能力を生かして、AとBの投出と投入を結合させる共同利用関係を担います。AとBによる共同利用関係は、経営や金融の専門能力をもったCが調整、仲介、管理、供給を担う共同利用関係に編成替えされるのです。
AとBは対価や料金、手数料などをCに支払い(投出)、その見返りにさまざまな有用物や有用サービスをCから購入するだけの消費者になります(投入)。金融の場合には、Cに資金決済の仲介をゆだねて手数料を支払う金融消費者になったり、Cに資金をあずける預金者や運用をまかせる投資家などの金融消費者になったり(投出)、資金を借り入れる金融消費者になったりするのです(投入)。Cという会社の株式を購入して経営参加もできる株主になることもあります。
企業や金融機関がその専門能力を生かして、AとBの投出と投入をうまく結合させ、より少ない投出で多様な人々のニーズに対応できる投入を生み出せるようにできればいいですが、前述したのと同様に、問題はそれらの専門性が優越的権力と密室性・複雑性を生みだし、投出と投入の結びつきが外部からは知りえなく、みえなく、わからなくなり、その結果、偽装や談合、脱税、優越的地位の濫用、不正や腐敗などを生み出す温床になることです。
前述したことと同様に、公共財としての持続的利益を高めるためには、共同利用関係者すべてが相互作用と相互依存の関係にあることを認識でき、それぞれが社会的責任を果たすことの自覚と共感を高めることが必要です。消費者や金融消費者が受け身的立場に留まるのではなく、より積極的に社会的責任を果たすために、企業や金融機関の社会的責任の実施状況についての重要情報の開示を求め、企業や金融機関の誰もがそれを簡単・明瞭に理解できるように開示(公表)し、これに基づき社会的責任評価が実施され、それが株価や信用評価に反映されることが必要なのです。このような社会的責任評価によって、企業人のモラルや職業規律が高められるでしょうが、さらに職務現場と教育現場における社会的責任教育や社会的責任金融教育の導入は必要です。
(2015年1月26日執筆)