紀国の考える金融の公共性

紀国の考える「金融」および「金融の公共性」とは、次のようになります。

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金融とはどういう経済行為でしょうか。
紀国は、これまでの伝統的な教科書の定義と異なり、次のようにもっと、人間的行為の要素をこめて「金融」を定義します。

「金融」の定義(紀国)
「多面的多様性を有する生身の人間と人間が、貨幣(お金)を基本的行為手段として用い、さらにそれ以外の多様な補助的金融行為手段を使って行う、感情・認知・動作をともなう人間と人間の関係行為」です。

つまり、金融とは、富の共通の等価物である貨幣を創出してそれを利用し、貨幣以外の金融行為手段の助けもえて、人間が他の人間に働きかけたり(投出)、他の人間の働きかけを受ける(投入)という行為です。
つまり貨幣およびその他の金融行為手段を使って複数の人間が関係しあう行為です。そしてそれは、多様な諸要素がからみあって相互作用的に関係しあう一つの人間システムとして機能するのです。

「金融システム」を働かせる三大基本要素には、次のものがあります。
①金融行為人間、②金融行為手段、③金融関係行為。

(金融行為人間)
「金融行為人間」とは、金融行為手段を開発・利用するに必要な、そしてそれによって金融行為を制御することを求められるところの、そして金融関係行為を営むに足る精神的・肉体的能力を必要とされる人間のことです。
情報や意思を伝達するための言語などのコミュニケーション能力、情報についての認知・認識・理解・判断・予測・評価・選択・保存などの精神的能力、計算能力、金融機器や情報機器を操作するための肉体的技能や動作能力などを求められることになります。

金融行為人間には、これらの金融行為能力が必要とされるのですが、それらのの能力には多面的多様性が大きいことをふまえておくことは重要です。
金融行為人間を具体的・個別的・人間的にみてみれば、その金融行為能力はいちじるしく相異があります。入手できる情報の質も量も異なりますし、金融取引や契約の知識や技能にも格差があるでしょうし、金融機器や情報機器の装備や操作能力も異なっているであろうし、装備している金融行為手段の質や操作力の違いも大きいです。社会的規範意識や倫理意識、そして社会的責任意識も異なります。金融商品や金融取引が高度で複雑になればなるほど、これらの格差は大きな隔たりになってしまい、金融強者が金融弱者を収奪する略奪金融が生じるのもこれゆえです。

(金融行為手段)
「金融行為手段」とは、貨幣を使った投出と投入という人間の金融関係行為を助け、その金融関係行為を補完し、効率的にすすめる手段です。さらに金融行為人間と金融関係行為を制御する手段でもあります。金融の場合は、無形のソフトウェアーが中心的になり、これに有形のハードウェアーが補助的手段となります。

〈無形的金融行為手段:ソフトウェアー〉
金融は、無形的性格を主とする貨幣や情報を共同利用する人間関係であるので、金融においては、無形的金融行為手段が主であり、有形的金融行為手段は副次的な役割を果たすことになります。

無形的金融行為手段としてますます重要な役割をもつようになっているものの一つは、金融行為制御手段です。金融職業倫理、金融行為規範、金融行為指針、規則や取引習慣、金融法規などです。金融情報の価値が高まるにつれて、不正な情報操作によって容易に利益をひねり出す機会がふえので、内部情報を利用した不正取引(インサイダー取引)や相場操縦、粉飾会計などの不正を防止したり、取り締まることが重要になるのです。しかしこれらの無形的金融行為制御手段の整備は、金融システムにとって重要な役割をしめるわりには、後回しにされる傾向にあります。

二つめは、金融技能や知識、金融ノウハウやマニュアル、金融情報などです。金融の自由化・国際化と規制緩和で新しい金融商品や金融取引が次から次へと開発され、それが複雑で高度なものになればなるほど、金融技能や知識、ノウハウの重要性は高まります。また金融の自由化・国際化は、金融機関の倒産リスクや相場変動リスクを強めるので、金融機関についての情報や相場を動かす情報の価値も高まるのです。
三つめに重要なものは、金融機関の信用や信頼性です。

〈有形的金融行為手段:ハードウェアー〉
有形的金融行為手段にもさまざまな種類があります。財布や金庫などの保管手段、銀行カードやクレジット・カード、手形・小切手・荷為替手形、株式や債券などの有価証券、預金通帳、印章や署名などの本人確認手段、計算や簿記手段、記録手段、情報の伝達・コミュニケーション・通信の手段、電話回線やコンピューター、情報の保有・管理手段、現金自動支払い装置(ATM)、証券取引所、現金を運ぶ車や道路、船などの運搬手段、多くの機械や道具、事務机や建物・土地などの固定資本などです。

(金融関係行為)
「金融関係行為」とは、貨幣を使いその他の金融行為手段の助けを得て行われる投出行為と投入行為のことです。この金融関係行為は、単独でできるものではなく、当然に他の金融行為人間と関係しあう行為であり、いろんな金融行為手段を利用して、他の金融行為人間に働きかけるという動作(投出行為)であり、また他の金融行為人間の働きかけを受けるという動作(投入行為)です。


「貨幣」(お金)とはどのようなもので、どのような働きをするでしょうか。
直接金融行為手段の中心は、当然のことに貨幣です。貨幣は、人類が人工的に生み出した偉大な発明品です。貨幣によって、人間は、時間的・空間的な制約をのりこえ、自分が必要とする財貨やサービスを自由に選択し入手できるようになり、選択の自由と創造の自由、活動の自由を手に入れ、人類の大飛躍につながったのです。

紀国の考える貨幣(お金)の定義
「富の共通の等価物として機能する無形創造物」

貨幣とは、「富の代わりを果たすことができる特別の権限や役割(富の共通等価物としての万能性)を、それを利用する個々人やその集合体である社会が、何らかの素材(媒体)を利用して与えた無形創造物である」と、定義することができます。

例えば、トランプゲームにおいていずれのカードの代わりにもなるジョーカー(ワイルドカード:Wild Card)の万能札、あるいはコンピューターの基本ソフト(OS)において不特定の任意の文字や文字列のすべてを表しその代わりを果たすことができる万能文字・文字列(アスタリスクの*や?)、などのようなものです。

*カール・マルクス著『資本論』の邦訳では、貨幣に関する記述で、原文の 「Allgemeines Aqiuvalent」を「一般的等価物」と訳しますが、紀国は不適切な訳だと考えます。
Allgemeinは、①「全般の、世間一般の、みんなの、共通の」と、②「一般的な、だいたいの、おおまかな」の二つの意味があります。
わたしは公共財の意味である「みんなの、共通の」を使って、「共通の等価物」と訳したいと思います。

人類史をふりかえると、貨幣には、さまざまな素材が貨幣材料(媒体)を提供してきました。最初は、石器、布、革、小刀、宝貝、米、麦、塩、油などの物品貨幣、次には金属類さらに貴金属の銀や金が現れ、さらに金を節約するために金と交換できる銀行券(兌換銀行券)が現れ、現代では中央銀行が発行・管理する紙を材料とした不換銀行券が貨幣の主流になっています。さらにデジタル化の進んだ現代では、デジタル信号が貨幣の役割を果たすようにもなり、電子マネー、インターネット・マネー、さらに国境をこえてインターネットとパソコン端末内を流通するビットコインまで現れているのです。

貨幣の歴史をふりかえると、貨幣が発生当初からもっていたその本質的特徴である「富の共通の等価物として機能する無形的創造物」としての本来の性格が、ますます純粋に現れる経過をたどっているともいえます。

貨幣(お金)は、富の共通の等価物として、次の5つの機能を果たします
①富に共通単位をつけ、②富の交換を迅速・任意にし、③富の移動と分配・再分配を容易にし、④富を随意に貯蔵できるようにし、⑤富の自由な貸借を可能にします。

①富の共通単位機能
いろんな種類の富に共通の単位をつけるために用います。
どのような富であっても、みんなが一つの共通の単位量(共通価格)で表示して取引できるのですから、これほど便利で効率的なことはありません。商品やサービス、給与、租税、国家予算、企業の財務や簿記などの、生活や政治・経済活動にかかわるすべての数量が、一つの共通単位で表示されるのです。それぞれが異なった複数の単位で表示されていれば、取引のたびに換算しなければならない手間と費用が生じます。共通単位があれば、家計、企業、政府などの経済活動の記帳、記録、計算がすべて一元的にできるので、数量的な評価、増減、比較、予測が可能で、簡単・明りょうになります。

②富の交換手段機能
いろんな種類の富を売買:交換する手段として用います。
貨幣は、貨幣量で表示する価格が付いたものならどのようなものでも、あるいは価格さえ付けることができれば、その価格の代金さえ支払えば入手は可能になります。したがって自分の自由意思で、自分の好みと選択で、自分に必要なものは、いつでもどこでも貨幣と交換に自由に手にいれることができるのです。個人であれ企業であれ政府であれ、貨幣の使い方は自由で選択的で、かつ創造的なものなのです。

③富の支払手段機能
債務や手数料、税金の支払いなどの富の移転に用います。
富の移動や分配・再分配についても貨幣をつかえば便利です。富の現物を移動したり、運搬するなどの必要がないからです。例えば給与や税が現物支払いや物納であればそれを運搬するなどの手間や費用がかかりますが、貨幣での支払いならば簡単です。しかも現在主流となっている決済性預金口座(当座預金や普通預金口座)への振り込みや引き落としなどのコンピューター操作ならば、パソコンのキー操作によって一瞬にして移動が可能であり、ほとんど費用はかからないのです。

④富の貯蔵手段機能
将来に備えて富を貯蔵する手段に用います。
このように貨幣を用いれば、現在必要なものはあらゆる所から調達できますが、将来に必要になるものについても、面倒な在庫費用をかけてその現物を蓄積しておく必要はなく、貨幣さえ貯蓄しておけば、将来に、マイホームを購入するためであれ、失業したときに生活するためであれ、いざ困ったときのあらゆる事態に即応できるのです。

⑤富の貸借手段機能
富を貸し借りするための手段として用います。
富の貸借も貨幣を使えば容易となります。どのように借りるのか、どのように返済するのかは、貸手との話し合いで柔軟にいろいろ決めることができるし、借りた貨幣の使い方も貸手との交渉で任意に決めることが可能だし、返済に必要な資金の獲得方法もいろんな方法があり自由なのです。


紀国は、「富」を広くとらえ、次のように定義します。
「富」とは、「人間の生命と生活および幸福を持続的に支えるあらゆる有用資源と有用環境」、です。

したがってわたしのいう「富」の概念や範囲は、これまでの経済学が定義してきたものよりも、ずっと広いものになります。それは次の4つの理由からです。

(1)アダム・スミスやリカードなどの古典派経済学やマルクス経済学は、  「労働生産物」を「富」と定義しました。しかしわたしは、人間の労働が加 えられていないものも、これから加えられるかもしれないものも、またそも そも労働とは関係ないものもふくめ、人間の生命と生活そして幸福を支える あらゆる有用資源と有用環境を、「富」と考えるからです。

(2)それゆえ衣食住などの消費活動の有形的対象物だけでなく、無形的性格 をもついろんな様式での有用物や有用環境、例えば読書などの知的情報、文 化・娯楽を楽しむための音声、音楽、映像、さらに安らぎをもたらす景観や 空間などの環境も、「富」となります。

(3)現在だけでなく将来に人間にとって有用になるかもしれない資源や環境 も「富」にふくめますし、将来のために、あえて手つかずに残しておく有用 資源や有用環境も、「富」にふくめます。
報道によれば、英国のロンドン大学の研究チームが、地球温暖化対策として、石炭の8割、天然ガスの半分、石油の三分の一を地中にとどめておく必要があるとの研究を、ネイチャー誌に発表しました(日経新聞夕刊2015年1月8日付け)。

(4)人間の認知能力、学習能力、創造能力が高まれば、これからあらたな有 用資源や有用環境などの「富」を創出するかもしれないからです。

「富」を「労働生産物」だと狭く定義してしまうと、それらをとにかく安く大量生産できたり、安く輸出入できれば、それですべていい、となってしまうからです。それをどのように、どのような方法で、なにを目的に、どのような条件や環境で生産するのか、という視点が欠けてしまい、それが人間の持続的幸福を犠牲にしていたり、その基盤的な条件や環境を掘り崩していても、構わないとなるからです。このような考え方が、資本主義国家でも社会主義国家においても、強い影響力をもつと、人類に持続的な生存が危うくなります。

フランスのパリ経済学校教授のトマ・ピケティ氏の執筆した『21世紀の資本』では、「資本」を「富」として取り扱っています。そこでいう資本とは、株・債券などの金融資産と不動産などの固定資産を合わせた「総資産」のことです。これらは配当、利子、家賃収入などの資産所得を生み出す元本であるので資本であり、またそれは、賃金のように消費されて消え失せるのではなく、蓄積され残っていくものなので、「富」として理解しているようです。経済格差・所得格差の拡大要因を探るためには、そのように富を資産に限定した方がわかりやすいと思いますが、わたしのいう「富」の定義は、それらもふくめ、もっと広くとらえております。

貨幣の三大悲劇
貨幣は、富の共通の等価物である、という質的性格をもっています。それゆえ、この貨幣の、富の共通等価物という質的性格からすれば、貨幣は、おのずから「富」を欲(ほつ)します。つまり貨幣は、その質的本性からして、「富」を生み出すこと、つまり人類の持続的幸福に役立つことを願っているのです。

他方で貨幣は、富の共通単位という量的性格からすれば、純粋量的記号であることを欲(ほつ)します。それ以外の無駄な付属物や痕跡を、できる限り省くことを求めるのです。なぜなら単なる量的な純粋記号であるほうが、貨幣を使う際にずっと便利なのです。貨幣自身が自分を使う人や使い方を指定することはできません。誰もが自由に使いやすいことは、公共財としての使命なのです。

『貨幣の哲学』の著者であるジンメル氏がその著書において、貨幣の性格を、「抽象性」「無性質性」「無性格性」「無個性性」「形式性」「無規定性」「無差別性」「量的性」「機能性」「普遍妥当性」などの、いろんな用語で繰り返し指摘したのも、それゆえでしょう。

このことから、貨幣を悪用したり乱用したり軽率に扱うことで生じる「貨幣の悲劇」が生まれます。

紀国は、貨幣のもっているこのような矛盾と弊害を三つ指摘し、それを「貨幣の三大悲劇」と定義しました。それは、(1)リスクの悲劇、(2)金力の悲劇、(3)富ではない悲劇、の三つです。
これは貨幣の悲劇であるので、貨幣を基本的手段とする金融・国際金融の悲劇ともなります。これを人間がうまく意識的に制御しないと、人間および人間生活さらに社会・国際社会をも破壊する強力な兵器にもなるのです。

(1)リスクの悲劇
「リスクの悲劇」とは、貨幣を利用して行われる金融という共同利用財には、その本質的要素としてリスク(損失の可能性)がふくまれていることです。

その一つは、貨幣が無形的・抽象的単位物であるので、貨幣の発行権限をもつ中央銀行など政府関係者がその権限を濫用して貨幣価値を減価させるリスクです。物価は上昇します。

二つめは一般の商品と異なり金融商品や金融サービスには、リスクがふくまれていることを前提として取引が行われることです。

三つめは、リスクのある金融商品は、リスクが大きければ大きいほど(損失の可能性が大きければ大きいほど)、リターンの可能性(収益の可能性)も大きくなるという特有の性格(ハイリスク、ハイリターンの原則)をもっていることです。このリターンの誘惑に負けて全財産を失う危険性も大きいのです。

四つめは、金融商品や金融サービスは、手にとってふれたり、実体を確認したりできない無形的性格の商品であるので、詐欺業者の手口にはまりやすいリスクです。

五つめは、借金リスクであり、返済は将来のことであるが現金はすぐに手に入るので、安易な借金依存を作り出してしまうことです。

六つめは、貨幣がデジタル情報化され、インターネット・バンキングやキャッシュカード、クレジットカードなどに応用されて便利にはなりますが、容易に犯罪で抜き取られるというリスクです。

最後に、貨幣の万能性はいろんな不正や犯罪(窃盗、横領、背任、殺人)を誘発することです。どのような人間であってもせっぱ詰まった状況に追い込められては、そのような誘惑(リスク)にとらわれるのです。

(2)金力の悲劇
「金力の悲劇」とは、貨幣が、その万能力とカネがカネを生み出すという増殖力をもっていることによって、人間や人間の心、企業、政治、国家を支配できる権力をもってしまい、その権力によって人間や社会・国際社会が歪められることによって生じる悲劇です。
政治においては、政治家としての有能性や見識・知識ではなく、ただ政治資金収集力の大きい政治家が強い影響力をもつ金権政治が横行しています。

企業経営者も、経営能力や法令順守意識、社会的責任意識が欠如していても(平気で不正や法令違反・財務粉飾をするなど)、ただ株式を多数所有するだけで企業を支配することができたり、政治家を利権や政治献金などで買収することに達者な経営者が企業の実権を握ったりするなどのことです。

また多くの金融資産をもつ富裕層が、それをうまく運用してより多くの資産所得を手に入れてさらに裕福になり、それを持たない貧困層との経済格差・所得格差は拡大していきます。

フランスのパリ経済学校教授のトマ・ピケティ氏が、2013年に出版した『21世紀の資本』は、原著969頁をこえる分厚い専門学術書であるのに(英語版696頁、日本語版806頁)、またたく間に世界15ヶ国以上で翻訳され、アメリカで50万部、そして世界でも150万部も売れる異例のベストセラーになりました(2015年2月現在)。

それもそのはずで、20ヶ国以上の国の税務資料を収集して、1870年以降の歴史的データを時系列的に分析し、経済格差・所得格差の歴史的変動過程を、実証的に明らかにしたからです。このような超長期にわたる実証分析は歴史上初めてのことなので注目されたのです。

その実証分析に基づけば、資本主義が所得分配の平等化をもたらしたのは、資産が破壊された世界大戦後の特殊な時期(高度経済成長期)だけのことであって、19世紀以降のほとんどの時期で資本主義は格差を拡大しており、今後もさらに不平等を拡大させる、というのです。

なぜなら、働いて得られる賃金などの労働所得よりも(経済成長率)、資本による所得(資産収益率)の方がより大きく、それが不平等を拡大するからです。アメリカではすでにトップ10%の人々が資産の70%を保有し、40%の人が25%を、そして50%の人は5%を保有するに過ぎません。これが相続されていくことで、ますます格差は拡大し、この世襲型資本主義が世界で広がれば、能力主義や民主主義を破壊すると警告しているのです。

アメリカにおいて世界金融危機(いわゆるリーマン・ショック)を発生させ、大儲けした張本人たちが、いまだに一人も個人としての刑事的・民事的責任を問われていないという、異常な無責任状況にあるのも、トップ10%が政治・経済を支配し、自分の思い通りに操作できているからだとわかれば、納得できます。

(3)富ではない悲劇
「富ではない悲劇」とは、貨幣は富の共通の等価物であっても、富そのものではない、ということです。ここに金融における究極の矛盾である「貨幣が富ではない悲劇」が生まれます。

「富ではない悲劇」を象徴的に表すのが、ギリシャ神話にある有名な「ミダス王と黄金」です。フリギア国の王、ミダスは、バッカスの神に頼んで、手に触れる物すべてを黄金にすることができましたが、食べ物や飲み物までが黄金にかわってしまい後悔した、という話です。ミダス王は、貨幣(黄金)こそが富であるという転倒した考え方(拝金主義)にとらわれていました。しかし富そのものがなければ貨幣(黄金)だけでは生活できないのです。貨幣は富の代わりを果たすことができても、富そのものではないのです。

貨幣をせっせと貯蓄しておいても、将来に必要とする富がなくなっていれば、富を蓄積できたことになりません。また貨幣を貸し付けなどの運用にまわして利益を得たとしても、その貨幣が富の生産と再生産能力を消耗させ富そのものが減退することになってしまえば
、ただ無意味に貨幣だけが増殖したに過ぎません。

消費者は安ければいい、生産者は帳簿上の利益が増加すればいい、貯蓄や投資・資産運用は投資元本を上回って貨幣が増殖しさえすればいい、となります。そのような行動が知らないうちに、失業者を増加させたり派遣社員のような不安定雇用を増加させ、家庭をもち子育てができない環境を作り出し将来世代の担い手たる子供の少子化につながり、地球環境を汚染して安売りを可能とする企業を育成したり、食料の自立供給ができない不安定な経済構造を作り出すなどして、富の持続的な生産と再生産機能を阻害し、消耗させ、その基盤を掘り崩していることも多いのです。



があると考えます。

(1)包括的機能性のもっとも高度な公共財
貨幣は、あらゆる富の共通の等価物として、みんながいろいろな方法で利用するので、機能的包括性はもっとも広くなり、この点での貨幣の共同利用的性格はたいへんに高度です。
機能的包括性とは、貨幣の5つの機能として前述した多様な方法で、誰もが自由に、自分の好きな方法で使うことができるということです。

しかしもし、だれかがそれを使おうとしたときに、他のだれかが信頼できないからとして貨幣としての受け取りを拒否し、それが連鎖反応を起こせば、その瞬間に貨幣としての働きはいとも簡単に停止します。そのとたんに生活物資や生産物資の物流は止まり、給与も現物で支給されるようになり、生活資金や生産資金も使えなくなります。そうなれば経済は大混乱におちいり、生活の維持はおろか生命の存続さえ困難になります。

したがって金融は、「貨幣の継続的利用可能性の保証」という金融制御を不可欠なものとする公共財なのです。貨幣の発行・供給を管理する政府機関およびそれを担う政府行為人間の社会的責任と厳格な職務規律がきわめて重大なものになります。

(2)利用者の一般的包括性が高度な公共財
金融は、社会的な全範囲にわたって広域共同利用のそして高密度共同利用の公共財です。金融のグローバル化(金融の地球規模化)が進んだ今では金融は、国際広域共同利用のそして国際高密度共同利用の国際公共財でもあります。

地域の道路や水道は主にその地域住民が共同利用する地域限定的な公共財ですが、共通の貨幣を利用する人々の地域的範囲は国民的規模であり、国際通貨になっている貨幣の利用者の地域的範囲は国境をこえた範囲になります。

利用者の一般的包括性が高度ということは、利用者の多面的多様性も大きいことを意味します。したがって金融は、この利用者の多面的多様性に対応する金融制御を必要とする公共財となるのです。

(3)ソフトウェアー公共財
金融は、情報とコミュニケーションという無形材料で組み合わされたソフトウェアー公共財です。情報を知らなければ、わからなければ、それが何を意味するのかを理解できなければ、何もできない公共財なのです。

金融がソフトウェアー公共財であるのは、そもそも金融における中心的利用対象物の貨幣が本質的性質として無形的性格のものだからです。その結果、金融取引においては、有形商品が物理的にやりとりされる訳ではなく、無形的性格の情報を受信し、確認し、認知し、理解し、判断し、評価し、選択し、発信し、伝達し、確認することで取引が成立します。

また金融における仕組みや規則、ルール、法令や法制度、会計制度、行政制度、税制度、金融制度などの無形の金融行為制御手段や金融についての多種多様な公開情報も、金融においては価格や金利、相場を形成する重要な働きをしています。

したがって、金融はこのような金融にかかわる情報を、誰もが知りえて、みえて、わかることを必要とする公共財であり、そのような金融制御を不可欠にする公共財なのです。

(4)利用者間の結びつきの高度な公共財
金融は、高度利用連関の公共財であるということです。コンピューターと通信により国境をこえて膨大な資金が瞬時に移動する金融のグローバル化(金融の地球規模化)の現代では、金融は、国際高度利用連関の国際公共財でもあります。道路という公共財がつながっているとしても地球的規模で結びつくことはありませんし、超高速で車が走ることはありません。しかし金融という公共財における利用者間の結びつきは地球的規模で、しかも秒単位での超高速な大容量での結びつきなのです。

金融利用者間の結びつきとは、ある人の貨幣の支払い(投出)は他の人の受け取り(投入)であり、それが他の人の支払いを可能にする関係(決済連鎖関係)です。同様に、ある人の貨幣の貸付け(投出)は他の人の借入れ(投入)であり、それが他の人の支払いや貸付けを可能にする関係(信用連鎖関係)です。

これとともに相手のことがよくわからない複雑で不透明で幾重にも重なった連鎖的関係が形成されると、その一つの関係の破たんであってもシステム全体の動揺と混乱そして崩壊を引き起こすという、潜在的不安定性をかかえることになります。

したがって金融は、システムを構成する人のモラルと自己制御および人々間の相互制御を必要とする公共財なのです

(5)弱い公共財
金融は、信用と信頼によって築かれた壊れやすい公共財、弱い公共財です。

前述したように、金融は連鎖的に結びついた高度なシステムですが、そのシステムは、情報とそれによって形成された信用という不安定な結び目で組み合わされた脆弱なシステムであって、それゆえ不確かな情報によって一気に壊れやすいシステムです。情報が不正確であったり、虚偽であったり、正確な信頼できる情報が迅速に公表・開示されなかったりしたら、金融利用者および金融機関はおたがいに猜疑心と不信感を増幅させ、損失を恐れて誰も貨幣を出さなくなって金融は収縮し、いとも簡単に機能マヒに陥いります。

したがって、金融は正確で信頼できる情報を迅速・適宜に、知りえること、みえること、わかること、このような金融制御を不可欠にする公共財です。

(6)危ない公共財
貨幣の三大悲劇で述べましたが、貨幣を利用して行われる金融は、リスク(損失の可能性)を固有の性質としてもつ危ない公共財となります。

金融システムを構成する個別単位がそれぞれにリスクを容易に認知でき、それを自分で負担できる範囲に抑制できればできるほど、システムとしての安全性・健全性は増します。このためには金融取引に関する重要情報とリスク情報を容易に入手できることが不可欠であり、金融情報の開示と公開が金融システムを支える土台になります。金融システムは情報が形成する信用という不安定な結び目で組み合った、とても脆弱なシステムなのです。前述したように、「知りえる金融」、「みえる金融」、「わかる金融」が進み、リスクを容易に認知できればできるほど、システムは安定し、より強固になります。

(7)恐い公共財
貨幣の三大悲劇で述べたように、貨幣を利用して行われる金融は、人間と社会および国際社会に対して強大な影響力と支配力をもつ恐い公共財となります。したがって金融は、これらの金力や金融権力の濫用を予防したり禁止するなどの意識的な金力制御および金融権力制御を必要とする公共財です。

(8)富ではない公共財
さらにこれも貨幣の三大悲劇で述べたことですが、富の共通の等価物であっても富そのものではない貨幣を利用して行われる金融は、自動的に富を生み出す公共財ではないということです。
したがって金融は、富の持続的な生産と再生産につながる意識的な金融制御を必要とする公共財です。

(9)複合的な公共財
さまざまな公共財がおたがいの働きを補完しあって複合的に機能することは前述しましたが、金融も、単独で働くことができるものでなく、他の公共財とその働きを補完しあって機能する公共財です。
たとえば通信、言語、数量単位、道路なくして金融は機能できるものではないし、金融機関は地域社会で土地や道路、環境、水、大気、空間、景観などを地域住民と共有しています。とりわけ金融はその基本機能である情報とコミュニケーションにつながる知識(読み書き・算術)とモラル(社会的責任意識)を育成する教育や公教育に支えられています。どういう知識と倫理感、社会的責任意識を身につけた金融消費者、金融専門家、金融行政官をどのように育成するかで、金融という公共財の持続的な共同利益財としての働きは決まります。


公共財としての金融制御
金融は以上の九つの公共財としての特性をもっており、これらの特性に見合った適切な共同制御を不可欠なものとします。

金融の公共財としての特性と金融制御の関係は、次のとおりです。

(1)包括的機能性のもっとも高度な公共財
(6)危ない公共財
(7)恐い公共財
(8)富ではない公共財
(9)複合的な公共財
→社会的責任金融・国際的責任金融制御を必要とする。

金融の公共財としての特性のうち、(1)(6)(7)(8)(9)で述べた金融制御は、金融・国際金融システムのそれぞれの構成単位が、貨幣価値の信頼の維持という社会的責任・国際的責任、適切なリスク管理によって金融・国際金融システムの安定性を図るという社会的・国際的責任、さらに自分自身の個別利益だけでなく社会的利益とも調和させるという社会的責任・国際的責任を果たすことを求めるものです。公共財としてのこのような金融のあり方を求める多様な創造的金融活動を、わたしは「社会的責任金融(SRF:Socially Responsible Finance)」と定義し、それが国際的な規模と範囲にわたるものを「国際的責任金融(IRF:Internatiolly Responsible Finance)」と定義しました。

(2)利用者の一般的包括性が高度な公共財
(3)ソフトウェアー公共財
(4)利用者間の結びつきの高度な公共財
(5)弱い公共財
→金融ユニバーサルデザイン制御を必要とする。

金融の公共財としての特性のうち、(2)(3)(4)(5)で述べた金融制御は、金融に関する情報は誰にとってもわかりやすく公表・開示すること、金融そのものや金融の仕組み、金融用語などが、どのような状況にあるどのような人であっても容易に理解でき、簡単に利用できるように、金融環境と金融制度をデザインすることを求めるものです。すべての人にとっての「知りえる金融」、「みえる金融」、「わかる金融」のデザイン化です。このような公共財としての条件を満たす金融制御の方法を、わたしは「金融ユニバーサルデザイン」と定義しました。

トマ・ピケティ氏の『21世紀の資本』でも、税務や財務などの金融データの透明性の拡大が重要であることが提起されております。彼は金融データの公表の国際協力によって、グローバルな累進資本課税を実施して、格差を縮小する方策を提案しております。



                      (2015年2月25月執筆)

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